人間としての欲求

潜在的顕在的に日々こうなりたいこうされたいみたいなのを垂れ流します。

 

 

 

まず、誰とでも仲良くしたいです!人と楽しくおしゃべりがしたいし、友達もたくさんほしいです。日々人と楽しく接したいです!

人に優しくされたいです!なので自分も優しくします!

人から必要とされたいです!自分の存在価値を感じたいです!

集団の和にうまく入りたいです!会話の流れを読みたいです!

 

 

 

 

もっとあるかと思ったけどいざ書き出すと意外と出てこないな。

 

 

 

 

簡単にまとめると自分の存在価値を見出したいというところでしょうか。

 

 

 

もう若くはないのだ

本日も目が覚めると、

「今日学校いかないとまずいかなあ・・・」

と学校を休む方向での思考をする。ここまでは昨日とまったくおなじである。

 

だらだらごろごろと布団の上で目が半開きのまま数分過ごし、遅刻か遅刻でないかギリギリの時間に体を起こす。睡眠に入る前に風呂に入ってないことを全身のベタツキから思い出し、気持ちだけが焦りながら風呂に入る。

なぜこんなふうにせわしなく日々を過ごしているのか疑問に感じる時が多い。こんな日々、何かを消耗している感覚は不快である。もっと時間の流れをゆったり、感じたいものだ。

風呂から出ると家から出る時間まで20分を切っていた。急がねばと焦る気持ちはあるものの、体は速くは動かない。このまま学校に行かなくてもよい方法をまだ考えている自分がおり、往生際が悪いなと自分で呆れた。

 

何とか学校に着き、授業を受ける。大学の授業の受け方は未だにわからず、ノートを取るのも強制ではないし、睡眠をとるも自由、そもそも出席も個人に任されているのだ。並み以上の自律心がないものはそこのない地にどこまででも落ちてゆける。だれから何と言われることもなくただ堕落していくのだ。

 

昼休みになった。授業の内容はわずかに頭に残っている。だが今日が終わるまでに記憶からは消えてゆくだろう。そんなことをぼんやりと考えながら昼食の塩にぎりをほおばった。いつもより塩辛く感じた。

 

次の授業で提出するレポートをいい加減にまとめあげ、授業に向かった。

 

何を言っているのだろう。配られたプリントを見る。答えは出ないまま次の授業までにとレポートの課題が出される。

 

人生が40年だとしたらもう半分以上は生きている。60年だったらどうだ。切りがない。

 

部活の活動に向かう。場所を移動して行うため、数人で移動する。後輩3人が前を歩いている。背筋はピンと伸びており、若さを感じた。たった数年の差だがされど数年である。侮れない。隣を歩いていた同年が「若いね」と言った。主語も何もなかったが、全くの同感である。盛大に同意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

適材適所でつくられる世界

になったら、将来についての迷いや不安や就活の必要もなくなるのかなーと考えたりする。

 

先程食べたバナナが思いのほかシャリシャリしていたのを思い出しながらコーヒーをすすりつつそんなことを思った。

 

普段生活していてもやはり思う。集団の中での適材適所は確実に、ある。人を動かすのが上手い人、1人で作業に没頭する人、人の話を聴くのが上手い人、人を笑顔にする人、おしゃべりな人、、、、

 

人には必ず秀でた部分があると信じている。その部分を生かせる場所、役割が必ずあるはずである。

 

それを早い段階で、しかも手軽に知ることができれば、いいのになと平凡な私は思うのである。

 

もし、その判断が実現したとして、適材適所と好きが一致するのかが不安な点として存在する。好きではないことは向いていたとしてもやりたくないことはもちろんある。逆も然り。だって人間だもの。

 

就活を控えた私の身だから適材適所が決まってて自分がいるべきところが決まっていれば苦労ないのにと思うわけですが、そうなってしまったらまた新たな問題にぶち当たりときりがないわけですよ。

結局何事もやってみないとわからないし、やってみてもわからないこともあるし、いつも成功ばかりではないし、いつも失敗ばかりではないんですよね。

 

私はいま、アルバイトと学校と人間関係と就職について思うあれやこれが頭から離れません。

アルバイトで私ができる仕事、任される仕事は少なく、それなのに

うまくできないこともたくさんあるし、社員の方に迷惑をかけているのではないか、果たして役に立っているのか、とぐるぐるぐるぐる考えてしまう。

学校では授業への理解がついていかず(やる気がないのも否めない)、このままで卒業論文に取り掛かって果たして、卒業できるのか。

人間関係において自分が思っているような関係を人と築けなかったり、人とコミュニケ―ションをとることが下手だったり、人を小馬鹿にしたようにしゃべるねと指摘をうけて何もしゃべれなくなったり、人に気が遣えなかったりとほんとにもう嫌になることばかりだと思うけど不思議と死ぬという行動には至らないわけで。

中途半端な人間だと心の底から聞こえてくる。

足らないところばかりなのに、ありのままの自分を受け入れなさいと言う人は世の中にたくさんいる。もうどうしろと。どうしたらそういうふうに自分を受け入れることができるんだ。

 

 

やっぱり今回も収集がつかなくなってきたのでこのへんで。

もう毎回こんな調子でぶつくさ書いてゆきます。

ただの出来事

文章表現が苦手。自分が思っていることがうまく表現できず、伝わらない。

実際の人間関係も苦手。自己表現がうまくいかない。

これに尽きる。自分の感情をそのまま相手に伝える言葉が出てこない。感情に名前を付けるのが苦手。

これだ。

 

 

何か生活に変化を。

どこにいっても人と関わる。

いつも自分自身と向き合うことになる。

結果逃げる。

 

これの繰り返し。

集団の中で自分の立ち位置を確立できない。

自己表現が苦手。

 

自己表現を言葉以外のもので。

技術。何かスキルを。

 

 

なんかないかな

 

普段の生活もままならない

人間だれでも興味のあることには積極的になるし、反対に興味のないことには何も行動を起こしませんよね。当たり前のことじゃんと言ってしまえばそうなんですが。

 

でも、興味がないことでもやらないといけないことって、日常に溢れかえってますよね。

 

それがね、できないんですわ。

困ったもんで。

 

興味のないことはまったくもって行動に起こせません。学生の身ゆえ日々の課題、レポート、洗濯、掃除、お風呂、、、、、

 

 

あとは、興味の湧かない人の話、興味がない人の話。

 

 

まとまらないので終了

やらないといけないと思う小さなことから片付けていかないと、

本当にやらないといけない大きなことに辿り着かない。

というのは怠惰な私が日々感じていることです。

なさなければならない小さなことはというのは、生活していくうえで必要なこと。例えば、掃除洗濯家事親父的なアレ。

で、やらないといけない大きなことっていうのは、レポートね。今レポートしか思いつかないけどもw

授業が終わり、レポートの提出期限が迫っているなと考えながら帰宅して、山になっている洗濯物をみて、

「ああ、、、洗濯しなきゃ、、、」

ご飯を食べようと思い、冷蔵庫を開けてみて何もない、

「ああ、、、買い物行かなきゃ、、、」

明日ごみの日だっけ、、?

「ああ、、、ごみ捨てに行かなきゃ、、、」

 

どんだけ怠惰なんだ自分、、、

嫌になってきますね。

まあ普段からやっとけよって話なんですけどね。

それができないんすよ。

 

 

まとめてしまうと、レポートをするためのスペースを確保するために掃除をするために洗濯をする。

もっと言うと、服屋に行く服がない状態。

 

 

ダメだこりゃ。

人に嫌われないために努力する時間。

無駄。

これほど自分を抑えつけて、失うものが多い上に得るものが何もないことないんてない。

そもそも自分が嫌われてないとでも?

すべての人に好かれるなんて無理な話だ。

 

みんな心のどこかでわかってるはずなのに、偽りの振る舞いをしてしまう。

 

 

過去を振り返ってみると、私もバカなことやってたなと思う。

そういうふうに費やしてきた時間と労力は今の人付き合いを見てみるとわりに合わない。まったくもって。

 

 

ただ嫌われることを行う必要はないですけどね。

 

みんなが自然体でみんなを受け入れることができることが理想。